うしかた と やまうば

うしかた と やまうば
瀬田貞二 再話
関野準一郎 画
1972.2.1. 191号


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再話である。語り継がれたものにいくつかのパターンがあって、『こどものとも版』として、ページ数とかおどろおどろしさの度合いとかを調整されているはずで、多くの人の目に触れれば触れるほど、この内容が普及版になっていくのかと思うと、これまた不思議に思います。こんな風に、伝承されて伝えられて来たお話の数々。これから先、口頭伝承で後世に残ることは、あるのだろうか?と考えるにつけ、記憶や記録に残す手段方法が開発されればされるほど、人から人へ、バトンをつなげるように、引き継がれるものは少なくなっていくのではないかと感じます。

母国語以外の言葉を学べ!学ぼう!学ばねば!と熱心になるのは良いけれど、語り継ぎも等しく大切なことだと思うのです。
脳の記憶装置と容量を一生涯で活用する量は、未使用部分に比べると圧倒的に少ないときいたことはあるので、多言語を学び脳をフル活用してもまだまだ口承伝承の可能性あると思うのです。

クリーナおばさんとカミナリおばさん

クリーナおばさんとカミナリおばさん
西内みなみ さく
堀内誠一 え
1974.5.1. 218号


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どちらも「おばさん」。こういう力強くてしっかりちゃっかり者はおばさんなんですね。

初版で出た時代の東京の夢の島、つまりゴミ集積所のことを連想します。今は人工島になっている夢の島。当時は高度経済成長期で何もかもが行け行けドンドン。今と比較すれば電化製品を始め、あらゆる物体の寿命も短かかったのかもしれず、買い直しの間隔も短かかったのかもしれません。それにしても、ゴミをそのまま放す、という至極大胆でもったいないことをし、且つ、自分たちの生活環境と近未来への見通しもなく世の中の多くの部分が巡っていた時代だったのではないかと思うのです。
そんな時代に、今、自分たちがやっていることはおかしくはないかと警鐘を鳴らし、問題意識を芽生えさせたくて世に出されたのではないかと思います。

こんな風なので、大人目線では、社会派絵本とも捉えられますが、雷さんたちが使えそうな電化製品を持ち帰る、という物語は、かなり愉快です。

わんぱくこぞうとおんなのこ

わんぱくこぞうとおんなのこ
石松 知磨子 さく・え
1974年6月1日 第219号

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男の子に対する、わんぱく、女の子ならおてんば、という言葉、今、日常的に使われている言葉でしょうか。
さて、冒頭部の展開。今ならば、いじめを助長するとか、こんなことがあってはならない、と声高な親たちが放ってはおかないの場面かな、と思ったのですが、そんなことを言っても、絶対にあるのよ、仲間はずれとか、意地悪というのは、いつの時代にも、どこの世界でも。ここで大切なことは、意地悪されている、仲間はずれされている、と感じたときに対抗するための知恵と勇気を如何に持つのか、ということだと思います。加えて、何事もいい塩梅に手加減ができる、ということも大切なことと、とつくづく感じます。どんなことにも限度はあって、経験しないとわからない、ではなく、本能的に感じて判断する、人の動物的な勘を鋭敏に育て、保つことも大切だと思います。また、疑似体験も大切な経験で、本を読んで得た経験もとても大切な要素だと思っているのです。

かばくんのふね

かばくんのふね
岸田衿子 さく
中谷千代子 え
1964.5.1./1973.7.1.


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このかば君。親子なのだろうけれど、「かば君」と言っているからには、お父さんカバとちびカバ君なのかな、そうあってほしいなと思っております。
今回は、雨が続いて動物園が洪水になって(たぶん、街も洪水になっていて)、水の中でも「泳げる」かばくんに乗せてもらおうといろいろな生き物たちがやってきて、優しいかばくんは、船になってあげるのだけれど、きりんの子まで乗せてあげるのは、ちょっと無理があるように思っていて、いつもしっくりこないのです。
それにしても、雨の強さや水の増え方、溜まり具合がその時の雨雲が出ていて陽の光がさえぎられているという光の加減の表現は、絵のすごさを感じさせてもらっています。
カバ君親子が水の中をひょいひょいと泳ぐ水面下の様子まで見られる場面があって、洪水だ、たいへんだ、という危機感は感じられないのだけれど、やさしいカバ君、頑張っていますという状況はきちんと伝わって来て好きなところです。

ふしぎなさーかす

ふしぎなさーかす
安野光雅 さく・え
1971年7月1日 第184号

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『こどものとも』で安野光雅さん作品というと“不思議絵”の人。なんとなく不思議。なんとなく違和感。ぱっと見は普通で特に抵抗はなし、でも、あれ?と思って見直すとじっと注視になってしまい、ページをめくっても前のページの絵の不思議が気になって、また戻る、の繰り返し。
『ふしぎなさーかす』は、サーカスという現実の世界でも見ても夢のような時間になる空間を、夢の世界で、その開幕前と開催中、終演後で絵比べをする、あらまあ、何々、ちょっと待て、という仕掛けがいっぱい。サーカスで必ずあるお決まりの演目が、本来ならそれだけでも驚きの演目のはずなのに、もう一捻り入っていて、油断大敵、ぼやぼやしていられません。
今日は、いつもと様子が違うのか、団員たちも、バックヤードから人を呼んできて、慌てている様子。案内役の道化師が、かなりいい味を出していて、演目内容を熟知しているはずなのに、どぎまぎしているようにも見受けられます。

ねむりむし じらぁ

ねむりむし じらぁ
沖縄民話
川平朝申 再話
儀間比呂志 版画
1970年11月1日 176号


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登場人物の顔、見慣れない街の景色、絵の輪郭の力強さ、そして、タイトル「ねむりむし じらぁ」と、主人公の名前、何もかもが濃くて、むしろ、怖いという気持ちを抱いて接していた絵本なのだけれど、何故か魅かれてもいたのだということに読みなおして気が付いた。絵の輪郭の線が力強く感じるのは、木版画によるものだということを意識できるようになったのは、大人になってから。
子どもの頃、繰り返し読むほど魅かれていたのは、主人公じらぁの、いつでも、いつまでたっても、ぐだぐだと眠っている「ねむりむし」ぶりがうらやましくて。そして、ちょっとずるいと思えるような知恵がある人だったから。一方で自分の望みがかなってから、とても働き者の青年になったから。何故、そんなに変わったのか、という理由は二の次で、だらだら、ぐうたらしていても、いざというときにシャキッと変われば格好が良く見えるものだ、と感じていたのかも。夜の場面は特に好き。


とうだいのひまわり

とうだいのひまわり
にいざか かずお さく・え
1973年9月1日
210号



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風船で運ばれてきたお手紙付きのひまわりの種から始まるこの絵本。こんなことが私にも起こったら、ちゃんと育てて同じように風船で飛ばしたいと妄想したものです。少し大きくなってから、環境という観点から、風船を飛ばすのはよろしくないことなのだ、という話を聞いたときに、そうなのか、と思ったもののこの絵本のように遠く離れた人と、偶然につながる夢のようなことが起こせないんだな、と残念に感じたものです。
この物語の主人公ともいえるひまわり。小学生の頃に育てたひまわりそのもの。ざらざらした太い茎がぐんぐん背を伸ばし、大輪の花をさかせ、太陽の動きに合わせてその顔を動かすひまわり。学校というところと縁が切れてから、こんな大輪のひまわりを見ることもなくなりました。
そして、灯台。今では灯台無人化で、同様の生活をしている人は少ないと思いますが、島国日本ならではの、海沿いに住むある家族の日常を疑似体験できる大切な作品です。

おおさむ こさむ

おおさむ こさむ
わらべうた
瀬川康男 画
1972.1.1. 190号


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「さよならさんかく」との遭遇は、この絵本だったのか、学校だったのか定かではないのだが、連想ゲーム式につながる歌詞とリズムの面白さに加えて、最後の一文「でんきは、ひかる。ひかるはおやじの…」がわけもなく面白く、大きな声で歌いながら遊んでいた。寿限無寿限無…を唱えるのと同じような面白さがあるのだ。
わらべ歌なので、音程とリズムがあると思うのだが、この絵本に収められている歌の中で、他に知っているのは、二つしかなく、知らないものは言葉の抑揚と刻むリズムで楽しもうと思うのだが、創造力不足なのか巧く乗れないのだ。これが、定型の短歌や俳句とは違うところなのかもしれない。
それにしても、瀬川康男さんの絵は、ふり幅が広いと思うのだ。「ばけくらべ」や「こしおれすずめ」と同様、和の雰囲気が色濃く出ていることを除き、同じ人の作品だと気づいて正直驚いてしまったくらいなのだ。物語をつなぐ絵と歌のための挿絵の違いだろうか。

ゆうこのあさごはん

ゆうこのあさごはん
やまわき ゆりこ さく・え
1971.10.1. 187号

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この作品が山脇百合子さんの作品であることを全く意識しておりませんでした。久しぶりに手に取って、あれ、この絵は、「ぐりとぐら」と同じだ、と思って表紙をじっとみてしまいました。お話も記憶から呼び起こすのに多少時間がかかり、徐々に思い出すという感じとなりました。
主人公、ゆうこの朝食が、パンに牛乳、チーズ、そしてゆで卵というくだりを読んで、パンが朝食の場合は、必ずイチゴジャムを塗っていたはずだった私は、どんな風に思ったのだろうと不思議でした。でも、こんな風な魔法を使って小さくなったり大きくなったりして、ちょっとした冒険に出られたら、どんなに楽しいだろうと羨ましく思ったことは間違いありません。
そして、一番うらやましかったのは、ゆうこの家の周りの風景。お話し後半に出てくる空を飛んで遠出をする場面。バートン作の「ちいさいおうち」が心静かに立っている、あの風景をほうふつとさせる緑がいっぱいの場所なのです。

いちごばたけのちいさなおばあさん

いちごばたけの ちいさなおばあさん
わたりむつこ さく
中谷 千代子 え
1973.5.1. 206号

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大好きな絵本だったはずなのだ。何度も繰り返し読んだという記憶があるので、本当に好きだったのだと思うのだが、惹かれた処はどこたろうと分析しながらの再読となった。
惹かれた理由の筆頭は多分、色。おばあさんが羽織っているカーディガン、掛け布団、そして、紫の色。いちごを赤くするのに欠かせない色の素となる石(岩)の緑。うきうきする色なのだ。
物語で描かれている、いちごの色を作る作業の様子。ここで使う水は雨水や地下水に違いないのだが、それは特別な水に思え、色の素となる土中の石も普通ではないものに違いないと感じながら読んでいたように思うのだ。
岩石を粉砕した緑色の粉は、苔類、地衣類に見えて仕方なく、この見え方は今回も同じ。でも、水に加えてぱっと赤い色が広がるのだから、顆粒状のものであることに間違いはなく、私の妄想は見当外れずれということになる。
これほどまでに好きだったのに、真似したことがないのもまた不思議。